ぶっきーの超・雑記ブログ

「より良く生きる」を模索する。


「伝えたいもの」と「伝わるもの」の間にある絶望的な隔たりについて




今日の朝こういう記事を書いた(本記事の趣旨と直接関係は無いので読む必要は無い)。

 

book-buku.hatenadiary.com

 

この記事では「僕がこの日のサイクリング中に得た清々しさ、心地よさ」をなんとか文章で表現しようと試みた。しかしどうしても自分が覚えた感覚と、文章として書き表された内容、およびそこから読者が抱くであろう印象には「隔たり」が生じざるを得ないように思われた。

 

一般化して言えば、「僕が伝えたいもの」と「読者に伝わるもの」の間に隔たりがあるように思われた。

 

いや、この隔たりは確かに存在して、しかもそれは絶望的な隔たりだ。

 

なぜ絶望的かと言うと、僕が感じたものと読者が感じたものが一致していることを確認する術が無いからだ。

 

「僕が見ている赤色」と「あなたが見ている赤色」が一致していることを証明せよ、と問われても答える術は無い。よくある「クオリア」の話だ(僕は茂木健一郎があまり好きではないから、彼が愛用していたこの言葉をあまり使いたくないのだが)。

 

ここで言う「隔たり」が存在しないケース、つまり僕とあなたそれぞれの感覚が一致しているケースももちろんあり得るだろう。しかし一般にはそれを確かめることはできない。

 

ここにどうしようもない絶望感、息苦しさを僕は感じてしまう。

 

では書くことが無意味かと言われればそれは違う。

 

「自分の経験した感動を読者と共有しよう」と意気込んで書いてみれば、「それなり」に感動が伝わるのもまた事実だからだ。そもそも僕はそういう意味で、この記事で言及している「隔たり」について語る以前に、「それなり」のレベルにさえ達していない。

 

だからまあ、絶望しつつも書き続けるしかないわけだ。

 

しかしどのように「書く」か。

 

この「絶望的な隔たり」にどうやって挑むかにはいくつかの選択肢がある。個性の発揮のしどころと言っても良いかもしれない。

 

例えば「自分が真だと思うこと」を誰かに伝えようとした時、その普遍妥当性を証明しようとして論理的な文章で追究していくならば、これは哲学である。

 

そうではなく、読者の感性に直接訴えかけるような文章表現を模索するならば、これは芸術である。

 

神話を作って「読者にも同じ経験が訪れるに違いない」と信じるならば、これは宗教である。

 

くり返しの観察か思考実験を通して普遍妥当性のある(らしい)法則を帰納し、(時には数学を駆使しながら)再現性を確認しようとするならば、これは科学である。

 

まあ同じ人であっても、具体的に何を伝えようとするかによって、ある時は芸術家になって、またある時は哲学者になるのだろう。

 

ではこのブログにおいて僕は哲学者なのか、芸術家なのか、宗教家なのか、科学者なのか。

 

今すぐには答えが出ない。おそらくこれも記事の内容によって変わってくる部分だと思う。

 

しかし記事を書く時に、今自分が何者であろうとしているのかは少なくとも明確にしておきたいと思った(ちなみに今は哲学者だろう)。そして何度も記事を書いていく内に、どのスタンスが読者と経験を共有するにあたって望ましいものなのかが見えてくるのではないか。だから僕はこの積み重ねを大事にしたい。

 

なおこの記事で指摘した「隔たり」は「書くこと」に限らず、音楽、絵画などあらゆる表現においても存在するだろう。ただ音楽や絵画などは論理的な推論のための道具などとしてではなく、もっぱら芸術表現(たまに宗教的儀式)のためにしか用いられないから、書くことと違って「自分が何者であるか」を自覚しなければならないという問題は生じにくい。

 

なぜこんなつまらない話をするかというと、ちょっと自分の頭の中を整理してみたくなったからだ。

 

そして僕がどんなことを考えているかを明らかにして、僕がどんな人間なのかを読者に少しでも理解してもらうことは意味のあることだと信じるからだ。

 

普段はライフハック的な記事を書いている僕だが、読者からすると得体の知れない人間であり、基本的には信用ならない人間のはずなのだ。

 

だから少しでも「どんなことを考える人間か」を明らかにすることによって、「このブログの他の記事の内容を信頼するか信頼すまいか判断するための材料」を読者に提供することは、やはり意味があることだと思うのである。